寂獏

 

春の盛りに

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春に盛りは、却って寂しいものかもしれない。

 

その寂しさが身に沁みるようになったら、そろそろ終わりが近いと思った方がいい、などという出まかせが却って身にしみる。人はいつでもさみしいに違いない。そのさみしさに耐えられず、遠くへうっちゃって考えないようにしているらしい

 

それはそうだと思う。達磨じゃあるまいし、寂しさに四六時中、面と向かって平気なわけがない、。こんなことを考えていると、普段、全く考えもしなかった宗教という言葉が浮かび上がってくる。とは言っても、にわかに宗教に入れるわけでもない。寄る辺ない、という感情がひしひしと迫ってくるように感じる。

 

 

んなものァ、考えたって無駄だ。それよりも毎日の一瞬を屈託なく、明るく過ごすがいい。と、神ならぬ誰かが言う。こっちの方がいいや、と思う。しかし考えるな、と言われても、わが身ならぬ頭の奴がほっとけばそっちの方に思考するらしい。頭というものは何とも厄介なもの。

 

 

ともあれ、これ以上ないほどの、下手くそな生き方だった。とは言え、上手な生き方をしてみろ、と言われても出来る筈もない。それは努力なのか、それとも生まれながらの何かなのか、そんなものは分からない。ただやはり自分の責任だと思うから、努力が足りなかったのだろう、と思うしかない。

 

人はみな虚しくなる。ならない人はいない。それに臨んで、思うことはそれぞれにさまざまであろう。そのとき、よかったなあ、と思いたい。こんなもので、そんな大それたことを、という価値判断は、この際聞き入れない。そんなものは知ったことではない。ただひたすら、自分のためにそう思おう、とそう思っている。

 

 

こんなものだったけれど、それで大いに満足。

無理やりだってそう思うことにした。

それが、誰に迷惑をかけるのでもなし。

 

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(写真は三島町