畢竟

つまるところは

 

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どうせ最後は虚しくなるんだから、なにをしてもいいと思う。

自分の思いのおもむくままに、やりたいことをやればいい。あれをしてはダメ、これはしちゃあイカン、などと考える必要は全くない。それがたとえ、世間から非難されるようなことであっても、やりたいならすればいいだけのことだ。

 

最後のさいごまで人倫に基ずき、清く正しく生きました。などと言っても、そんなものがいったい何になるというのだろう。そんなものはおそらく、本人にとって屁のつっかえにもならないに決まっている。なにしろそんなことを言われたって、本人には全く関係ないことになってしまっているのだから。

 

黒澤明の『生きる』という映画があったが、あれの面白いところは、主人公が亡くなった後の彼の元職場(市役所)のあり様だろう。

ガンであることを知った主人公は、やりたいようにやって、悔いを残さずに死にたいと思い紅灯の巷に溺れようとするが、結局のところ住民のために、小さな公園をつくり上げることに生きることの喜びを見つける。そして職場の同僚は、彼の葬儀の席で、彼の生き方をほめちぎる。「彼の生き方こそ人間らしく素晴らしいものであった」と。

しかし、その後の彼の元職場の実態は、まったく変わらなかった。上司の目だけを気にし、住民のためなど一顧だに考慮せず、それは主人公の死ぬ前の実態と何ら変わりがなかった。亡くなった主人公の生き方をほめそやした者たちは、口の周りを拭いて、また自己利益のためだけに生きていくのだった。

 

ここに描かれた状況が、社会の実態だと思う。それがいいとか悪いとか言っているのではない。偽らざる現実であろうと思う。だから、人はやりたいようにやればいいのだ、と思う。人倫にもとるだとか、常識的にどうか、などという世間の目を気にすることはこれっぽっちも不要だ。

だいたい、そのような「こう生きるべきだ」などということは、いったい誰に決める権利があろうか。誰も、神でさえ、そんなことを決める権利はない。

 

ただ、人間の集団である社会には、最低限やってはならない約束がある。違法行為はやってはならぬことになっている。それをやれば、それなりの罰則が、厳として決められている。それでも構わぬからやってしまえ、という場合はそれはそれで致し方がないが、違法行為以外であれば、どんなことをしても構わないと思う。倫理だとか常識だとか、そんなものはくそ喰らえ、ということだ。