環流

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”平成最後の○○”とテレビが盛んに言う。

 

どのチャンネルでもいうから日本の一大事に違いない。しかしどうも一大事が起こっているようには見えないからなんだか不思議だ。もっとも一大事が起こっていても世の中から半分取り残されている爺いにはそれが見えないのかもしれない。

昭和の最後は”昭和最後の~”とは言わなかった。もっともあの状況でンなこと言ったら日本中から何を言われたか、とんでもないことを口走ったと思われたに違いない。昭和の最後も自分一個人にとっては別にドってことなく平凡な次の日が続いただけだったと思う。

だから今度の”平成最後”も多分個人的には何も起こらないような気がする。だいたい平成になってから個人的な場での元号使用を止めた。例えば、メールの日付やら会合の日付やらを西歴一本にしてしまった。

 

元号が自分にとってどんな意味があるのか、それがとんと分からない。それを考えていくと、元号の裏の奥深くに何やら日本列島にどっしりと腰を下ろしているらしい、天皇制日本もとんと分からない。分からないから分かろうと少し本など読んでみたけれど、やっぱりわからないまま過ぎた。

全く分からないままだとなんだか奥歯にものが挟まったような気分なので、ひとまず何かこじつけておくことにした。それは、天皇は日本全体を大きな疑似家族と見た時の家長にあたるものではないか、とひとまず考えておく、というものだ。

長い間日本社会は家制度でやってきたらしいから、家、家族というのは、もしかするとわれらの身に染み付いて、ちっとやそっとでは剥がせないものかも知れない。かっては村共同体が一つの家族であり、会社も一つの家族だった、と考えるとなんだかしっくりくるように思える。

こんなことを書くと天皇制批判、などと思われるかもしれないけれど、ともかく分からないのだから批判もへったくれもありようがない、分からないのはどこまで行っても分からないというしかない。

 

 

爺いの日常でもなかなか平坦でもない。

まず車をぶっつけて凹ましてしまったのを皮切りに、体調を崩してよれよれ状態になり、何度か医者に通った。その間に車の修理やら専門病院への受診やら、そんなこんなで半月が潰れてしまった。働いている世代から見れば、なんだそんなことぐらい、板のように平坦な日常じゃねえか、なんだけれど、こっちは憚りながら年寄りだ。何をするにしても万事スムーズには行かないのだ。

こんなことで、ぶつぶつ言ってると金沢方面のチコちゃんに叱られるだろうから言わないことにするけれど、しかし板のように平坦な日常というのも考えようによってはつまらないかも知れない。とは言え、この年になってから波乱万丈になっても大いに困るから、ま適度に波があってちょうどいいのか?

どうせ、まもなく自分にとっての一生に一度の波乱万丈が待っているだろうから。

 

 

こんな案配だから新年に向かっての抱負も何もないけれど、差し当たっては体を復調させることが第一と思っている。

復調成ればまた馬鹿な日常を淡々と送ることもできるに違いない。

どこかをふらふら歩ければそれでまあいいとしよう。