立春

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もうすぐ春が立つのだそうだ。

 

ならば、暗い穴倉での冬眠をやめて、のそのそ這い出さねばならない。

 

昨年の暮、不摂生がたたって体調を崩した。身に覚えがあるから大急ぎで病院に行って当面の薬をもらったが、専門医を受診せよと言われたものの、年末年始の休みに入ってしまい鬱々と日を過ごした。

幸いもらった薬が効いたらしく症状は緩和して正月も無事に過ごせた。そうして正月が明けるとすぐに専門医に見てもらったら、ま、薬を飲んで月末にまた来い、その時検査する、と言われ、結果、先日晴れて無罪放免となった。

毎年1月はある種の”くびき”があるのだけれど、それも終わって解放された。そんな状態の冬ごもりだったので、春だぞ~~と言われればいささか心浮き立つ。

ともかく表に出ねばならない。

 

 

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何処へ行ったらよかんべか、と考えて、ともかく春一番の花を見たいから昭和記念公園に行く。ぶらぶら歩いて畑の脇を通るとホトケノザとオオイヌノ何とかの、まだ少年少女がけなげに咲いていた。

春だとの認識はこの花に依っている。この地方ではこの花が春一番の使者だと思っている。小さな花で春浅い時は寒い風の中でようやくに咲き続けているような風情を見せる。冬枯れの茶色い野では淡い赤と淡い水色がよく目立つ。

 

 

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途中の神社に立ち寄ったら節分の行事の準備をしていた。お年寄りの男性数名とおばさん若干、氏子といういうのも何かと大変だな。小さい舞台でお囃子が鳴り始めた。飛び回っていたお兄ちゃんと妹、仲良く並んで聞いている。

この後獅子舞が出てきて二人は舞台の下まで行って背伸びをし、小さな頭を噛んでもらっていた。こういうことは最早消えていく風習だろうけれど、幼い二人のやわらかい脳にどのように記憶されていくのだろうか。

 

 

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昭和記念公園に入る。池では大勢の水鳥たちが、む、今日は風がなく暖かくて気持ちがいい、などとささやきあって、ゆらゆらと浮かんだまままどろんでいる。梅林では赤白の梅が咲き始めた。しかしまだ蕾が多い。

それでもいたるところ枯茶色の中でほんのりと開く赤や黄や白は、それだけで何やら暖かい。これから3月4月、怒涛のようにさまざまな花が咲いては散りちっては咲くのだろうが、何でも一番最初は貴重に思える。

 

 

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もう何べん写真に写したかわからない梅の花をまた性懲りもなく写真に撮る。これは一つにスマホカメラの具合を試してもいるのだけれど、今度のスマホは以前のものと比べ格段にきれいに撮れるようだ。

ところで、最近スマホを鬼の言いつけに従って変えたのだけれど、膨大な無駄を実感した。鬼は結果として一銭もかからないで変更可能、というのに釣り込まれたらしいが、そのための、死ぬほどの複雑怪奇、鬼のように面妖なる手続きがある。

その説明に、ぬあ~~んと4時間、相手もそれだけの時間を拘束されて説明しているわけで、しかも二人がかりだからこちらと合わせて合計4人、4時間の拘束、結果として頭がしびれて何も覚えていない。

そのあとも何の手続き彼にの手続きその他その他、これからも山ほどある。人間をこれだけの時間拘束してほぼ説明は無駄になり、しかも古い機械は何の役にも立たず捨てられる運命だとか。この機械いったいいくらするんだああ~~。

何やらガラパコス化を彷彿とさせる。こんなことに血道をあげていて日本は大丈夫なのだろうか!? もっと単純で分かりやすく、年寄りでも気軽に持てるモバイルは日本では生まれないのだろうか!?

 

 

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それはともあれ、公園の奥のセツブンソウが咲いているベンチで昼飯のおにぎり。だいぶ遅くなってしまって腹がすいている。近くではおばさんグループがおしゃべりに余念がない。

こんな風にして年が明けまた一年が始まる。もっとも一年続くかどうかはだれも保証してくれないけれど。

 

 

公園をぐるっと回って帰宅。歩行距離約15㎞。ま、冬眠明けにはこれぐらいかな。