無常
「無常」ということの講演を聞いて
大学の先生が「無常」について話をしてくださった。
とても難しいテーマなので、先生の話を簡単にまとめることは困難だが、忘れないうちに要約だけでも書きとめておこうと思う。
① 「無常」とは何か
永遠不滅の物は無く、あらゆるものが生滅変化を免れない、ということ。
仏教の最も重要な基本教義である。
本来、無常観は、現世的価値を虚しいものとして、それらへの執着離れた安楽の境地を実現するための仏道修 行へと結びつくものである。
これはよく聞く話であり、人の口にも膾炙しさまざま本にも頻繁に現れる。言い習わされているけれど、日々の実感としては認識しにくいと思う。仏教について余りにも関心が薄すぎるためかもしれない。
② 日本文学の中の「無常」
日本文学においては、無常観は「無常感」として受け止められており、いささか本来の意味を 逸脱している。
文学においては「無常」は、四季の変化を敏感に受け止め、移ろいゆくものの中に自己の運 命を読み取る感性と して捉えられたのである。例えば
・ 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
・ 沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわす。おごれる者久しからず。ただ春の夢の如し
・ よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人と すみかと、またかく の如し
ここには、たしかに、現世的価値を捨象して、無常をあるがままに受け入れ精神の安定を得ようとするような、仏道求道の気持は読み取れない。
それにつけて、胸に浮かぶのは吉田兼好。『徒然草』の中で、「世は無常、栄利を求めるは愚か。世を捨てよ」と盛んに説く。しかしながら、彼の晩年はこの言葉と裏腹に、名利を求めて野心的に世へ出ようとしたらしい。これは何だろうと今でも思う。
③ 道元の「無常」……「無常仏性」
しかあれば、無常みずから無常を説著、行著、証著せんは、みな無常なるべし
―「無常」なるものが、自ら「無常」を説き、行じ、悟るのであり、自己を超越し続けると言う意味で、全てが無常なのである。
常者未転なり。未転というは、たとひ能断に変ずとも、所断とかすれどもかならずしも、去来の蹤跡にかかはれず。ゆへに常なり。
―常住とは「未転」(変化しない)ということである。しかし、真の意味の常住、未転であるならば、それは、「能断」(煩悩を絶つ側)に変化しようと、「所断」(煩悩を絶たれる側)に変化しようと、それは変化に執着せず、変化をその意味で越えている。だから常住というのだ。
こうなると、もはやいくら考えても分かりそうにはない。要するに「なにものかから、超越する。何かに、拘らない」ということが仏性なのだ、と言っているようなのだが、どうにもこうにも、ストンと胸に落ちて納得、とはいかない。
仏教というものは、ほんとは大変に難しいものなのだな、ということだけが分かった。