我等
我が民族はいつだって外国文化に頭が上がらない。
明治文明開化から約150年、いまだに外国が一番エライと思っている。
政治と経済はアメリカの言うまま子分のように従っているし、庶民の、下々の文化だって外国をひたすら奉って倦むことがない。
曰く、リゾット!?・・・日本に古来からある「おじや」じゃねえか!
曰く、パスタ!?・・・・日本蕎麦のほうが格段に旨えと思わないか!
曰く、スイーツ!?・・・「白玉しるこ」があるじゃないか!
・・・ ・・・
日本がまだ建国まじかなころ、随、唐に学びこれをまねたのはある意味仕方がなかったかもしれない。
しかしそれが終われば、たちどころにしてアメリカ、西洋に葦の如く靡いて憚らず。
足元に貴重なものが打ち捨てられ転がっている。
夜半寝覚
あの頃でも、宮崎駿がどれほど現在の世の中に失望していたかが分った。
それと併せて、先日若い人たち(高・大女子)が、SNSや恋愛関係でどれほど悩んでいるかという講演会を聞いた。
それらに触発されて少し思うことがある。
人は偉大な存在であると思うが、また悲しき存在でもある。
偉大な存在だと思うのは、現在曲がりなりにもある程度民主的な世の中になったと思う。
前世紀以前に比べれば、ほんのわずかな他人に不当に圧迫されたり殺戮されたりすることは減ったのではないか。
また、医療の発達によってまだ若くして、無念に死ぬということも減ったと思う。
それは人が努力して実現した来たことで、この点で人は偉大だと思う。
ひるがえって人は悲しき存在だと思うのは、当面目の前に無念に死ぬ、あるいは無残に死なされることや、食うことに奔走されることが少なくなったと思う。だから前世紀以前に比べれば生きることを謳歌していいように思うのだけれど、安全や食糧確保に奔走されなくなった分、それだけ意識が自分の内部にだけ向かったのか、考えなくてもよいことまで考えて苦しむようになったような気がする。
生きることに対して、人は上手なのか下手なのか。