思考

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どうも頭の中が古い綿くずのようなものでいっぱいになっていて、考えがうまくまとまらない。

まとまらないなら、まとまらないでいいから構わずその考えを書いてみようと思う。

 

人には唯物的な思考と観念的・情緒的な思考とがあるような気がする。

観念的な思考は、その裏付けとなる実態がないからとても危ういように思えて、だからできれば唯物的な思考にのみ意味があるような気がしていた。

しかし最近、唯物的な思考だけでは人はうまく行動できないのではないか、と考えるようになった。

唯物的な思考だけでは人はどう行動していいか分からない、のだと思う。

例えば日々の些末な行動にしろ、何か大きな行動を決断するにしろその基盤となっているものは、ニュートンでもなければ量子論でもない、と思うのだ。

その基盤となっているものは、体の中にうっすらと入っている論語の言葉だったり、仏教の片々だったりするのではないか?

 

だから人は、観念的でなんだか”思想”と思えるようなものをベースに行動し、自分の周りの世界をまた唯物的な思考方法で把握しているような気がする。

 

しかしながら、最も身近な行動は情緒に支配されたものだろう、とは一番に考えられる。

例えば、「懐かしさ」という情緒的な思いから、街道沿いの古い家並に強力に引かれて江戸時代の五街道をみんな歩いてしまう、という人などざらにいる。

おそらく人の直接的な行動の原理は、この情緒的なものではないかと考えられる。

趣味にはまり込んで暇さえあればそこに没頭するなどのほとんどが、何かしら情緒的な思いに駆られてのことだろうと思われる。

 

このような心理を明快に解説した本はないものだろうか?

自分の頭のボケボケさかげんを他人に期待する、というのもなんだかナと思うけれど、ヨワイ重ねて古綿が増えるばかり、ぴかりとも発光ぜず、記憶は日々に薄れて、自分の頭じゃないような気がする日々。

 

しかし呆けるというのはある面でいいことだとは思うけれど。

 

 

 

我等

 

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我が民族はいつだって外国文化に頭が上がらない。

明治文明開化から約150年、いまだに外国が一番エライと思っている。

政治と経済はアメリカの言うまま子分のように従っているし、庶民の、下々の文化だって外国をひたすら奉って倦むことがない。

曰く、リゾット!?・・・日本に古来からある「おじや」じゃねえか!

曰く、パスタ!?・・・・日本蕎麦のほうが格段に旨えと思わないか!

曰く、スイーツ!?・・・「白玉しるこ」があるじゃないか!

・・・   ・・・

日本がまだ建国まじかなころ、随、唐に学びこれをまねたのはある意味仕方がなかったかもしれない。

しかしそれが終われば、たちどころにしてアメリカ、西洋に葦の如く靡いて憚らず。

 

足元に貴重なものが打ち捨てられ転がっている。

 

 

 

夜半寝覚

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宮崎駿と養老孟子の対談本を読んだ。大分古い本。

あの頃でも、宮崎駿がどれほど現在の世の中に失望していたかが分った。

それと併せて、先日若い人たち(高・大女子)が、SNSや恋愛関係でどれほど悩んでいるかという講演会を聞いた。

それらに触発されて少し思うことがある。

 

人は偉大な存在であると思うが、また悲しき存在でもある。

偉大な存在だと思うのは、現在曲がりなりにもある程度民主的な世の中になったと思う。

前世紀以前に比べれば、ほんのわずかな他人に不当に圧迫されたり殺戮されたりすることは減ったのではないか。

また、医療の発達によってまだ若くして、無念に死ぬということも減ったと思う。

それは人が努力して実現した来たことで、この点で人は偉大だと思う。

ひるがえって人は悲しき存在だと思うのは、当面目の前に無念に死ぬ、あるいは無残に死なされることや、食うことに奔走されることが少なくなったと思う。だから前世紀以前に比べれば生きることを謳歌していいように思うのだけれど、安全や食糧確保に奔走されなくなった分、それだけ意識が自分の内部にだけ向かったのか、考えなくてもよいことまで考えて苦しむようになったような気がする。

 

生きることに対して、人は上手なのか下手なのか。