環流

f:id:doniti:20181228105535j:plain

 

”平成最後の○○”とテレビが盛んに言う。

 

どのチャンネルでもいうから日本の一大事に違いない。しかしどうも一大事が起こっているようには見えないからなんだか不思議だ。もっとも一大事が起こっていても世の中から半分取り残されている爺いにはそれが見えないのかもしれない。

昭和の最後は”昭和最後の~”とは言わなかった。もっともあの状況でンなこと言ったら日本中から何を言われたか、とんでもないことを口走ったと思われたに違いない。昭和の最後も自分一個人にとっては別にドってことなく平凡な次の日が続いただけだったと思う。

だから今度の”平成最後”も多分個人的には何も起こらないような気がする。だいたい平成になってから個人的な場での元号使用を止めた。例えば、メールの日付やら会合の日付やらを西歴一本にしてしまった。

 

元号が自分にとってどんな意味があるのか、それがとんと分からない。それを考えていくと、元号の裏の奥深くに何やら日本列島にどっしりと腰を下ろしているらしい、天皇制日本もとんと分からない。分からないから分かろうと少し本など読んでみたけれど、やっぱりわからないまま過ぎた。

全く分からないままだとなんだか奥歯にものが挟まったような気分なので、ひとまず何かこじつけておくことにした。それは、天皇は日本全体を大きな疑似家族と見た時の家長にあたるものではないか、とひとまず考えておく、というものだ。

長い間日本社会は家制度でやってきたらしいから、家、家族というのは、もしかするとわれらの身に染み付いて、ちっとやそっとでは剥がせないものかも知れない。かっては村共同体が一つの家族であり、会社も一つの家族だった、と考えるとなんだかしっくりくるように思える。

こんなことを書くと天皇制批判、などと思われるかもしれないけれど、ともかく分からないのだから批判もへったくれもありようがない、分からないのはどこまで行っても分からないというしかない。

 

 

爺いの日常でもなかなか平坦でもない。

まず車をぶっつけて凹ましてしまったのを皮切りに、体調を崩してよれよれ状態になり、何度か医者に通った。その間に車の修理やら専門病院への受診やら、そんなこんなで半月が潰れてしまった。働いている世代から見れば、なんだそんなことぐらい、板のように平坦な日常じゃねえか、なんだけれど、こっちは憚りながら年寄りだ。何をするにしても万事スムーズには行かないのだ。

こんなことで、ぶつぶつ言ってると金沢方面のチコちゃんに叱られるだろうから言わないことにするけれど、しかし板のように平坦な日常というのも考えようによってはつまらないかも知れない。とは言え、この年になってから波乱万丈になっても大いに困るから、ま適度に波があってちょうどいいのか?

どうせ、まもなく自分にとっての一生に一度の波乱万丈が待っているだろうから。

 

 

こんな案配だから新年に向かっての抱負も何もないけれど、差し当たっては体を復調させることが第一と思っている。

復調成ればまた馬鹿な日常を淡々と送ることもできるに違いない。

どこかをふらふら歩ければそれでまあいいとしよう。

 

 

無題

f:id:doniti:20181118195439j:plain

 

こちらのブログは秘密だったのだけれど、少しずつばれた。

ばれたなら仕方がない。秘密でもなんでもなく書くしかない。

 

となると、今まで秘密の部屋で腹にたまった澱をぶちまけて、やや均衡を保っていた、その部屋がなくなるわけだ。言わば”はてな”は余計なことをやってくれたと思う。この国では儲け主義は嫌われるのになあ! 

 

 

ふと考えたのだが、老人の日常生活をだらだら綴って何か意味があるのだろうか? 大体老人の日常は死ぬほどつまらない。何か刺激的なことが起こるわけでもないし、ワクワクするような体験をするわけでもない。

 

ただ極めて平滑で平凡な起伏のない時間が流れていくだけなのだ。少なくても自分にとってはそうだ。そんなものを読んで面白いなあ、と思う人はいない。若い人なら一言、面倒くせいなあ、で終わりだろう。

 

にもかかわらずだよ、ブログを書くのはあれだな。きっと書くことによって自分の気持ちを整理しているんじゃあるまいか。おそらく、衰えたりといえど脳みそに日々何かが浮かび上がりそれがアミロイドベータみたいに溜まってくるのだろう。たぶん!それを書くことによって整理してしまいたい。そうだろうと思う。

 

 

もしも、このようなことであれば、ブログを書くことはあながち無駄ともいえないような気がする。書くことによって、脳みそにたまったアミロイドベータはどうすることもできないとしても、少なくとも脳みそのなにかは整理できるのかもしれない。

 

人間というものは面倒くさいものだ。半分人間をあきらめたと思われる老人だって、こんな手続きを踏まないと平衡が保てないらしい。だから、諸行無常、世に真実なんぞ一つもなし、の心境になればこんな面倒はいらない。

 

 

f:id:doniti:20181118203328j:plain

 

ともあれ、近いうちにこっちのブログを何とかしなくてはならないらしい。

だけど面倒だからその時までほっておく。

ダメになったらそれまでだ。

 

 

秋の日

f:id:doniti:20181105181947j:plain

 

11月の初めころ、幾日かきらきらするような美しい秋の日が続いた。

朝カーテンを開けて空が青いとそれだけで嬉しくなってしまう。特段どこかへ出かけるという目当てさえないのだけれど、日々のちょっとしたいいことが嬉しい。歳をとってむき出しの欲も得も希薄になったためかもしれない。

特に春と秋の季節のいい日が晴れていれば、一日中なんだか得した気分にさせれる。青い空に浮かぶ白い雲を眺めてもいいし、暑からず寒からずの風がそよそよと吹きわたってくるだけでもいい。だいぶ安上がりな満足感だなあ!

 

そんな日は寝転んで読み古しの文庫本を読み返すのも楽しい。

このところ、養老孟司宮脇俊三、内田百閒を順繰りに巡るのが習い性となってしまったようだ。いずれも文章の達人と解説されたりしているが、そのせいだろうか読んでいて大変に心地がいい。

養老先生を除いて、いづれも大したことは書いていいないように思えるのだけれどなぜだかよく分からないのだが、読んだ後じんわりと気持ちに染み入ってきて、また読みたくなってくる。この点は養老先生の本も全く同じだ。

読み古しの昔の本を、2度も3度も読んで嬉しがっているのは、こりゃあ、ひょっとしてバカなんじゃあるまいか、とときどき思うのだが、こればかりはどうにもならない。時として本屋に立寄り今どきの(例えば磯田道史中野信子)などを購入して読んでみるがちっとも面白くない。多分面白い本を見つけられない症候群かも知れない。

 

家の中にくすぶっていないで、そんな日は表に出ろや。

という声が聞こえてくるのだが、これは自分でも驚くほどその頻度が落ちてしまった。少し前なら、晴れていれば言われる前に飛び出していたはずなのだ。そのことは、自分でも危機的状況なのでは? と思う。

かくてはならじと思う。どうせ年寄りのさんぽなのだからまたもとのように頻繁に歩かなくてはいけない。出てみれば案外面白くてそれなりに満足するかもしれないのだ。

 

さあ! 近日中に晴れてくれないかなあ!